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    それはさうだ、永いことにちがひない、と房一はゆつくりと歩きつゞけた。多分、彼は彼で、自分のこれからの生涯を、その計りがたく、茫漠とした行手を見ていたのだらう。

    だが、練吉のひきつゞく不身持にはたつた一つの取柄があつた。それは隠し立てのないことだつた。どんな場合でもおほつぴらだ。そして、彼は云ふのだつた。――「おれは初恋の女がどうしても忘れられないんだ。親父やおふくろは、年の若い者の浮気位に考へてろくに相手にもしなかつたんだが、あの時頭ごなしに叱りつけないでいゝやうに舵をとつてくれたら、おれもこんな風にだらしなくはならなかつたんだ。あの女が忘れられないために、かうして次々とふしだらを重ねるんだよ。おれは子供の時から何でもかんでも、あれしてはいかん、これしてはいかんと圧へつけられて、まるで息がつけなかつた。それあ親父やおふくろは立派なきちんとした人達なんだ。それはそれでいゝが、僕は性質がちがふんだ。だらしないけれども、僕は僕なりに向きもあるし、考へもあるんだ。それをやかましく、やかましく押へつけられて、ぎうぎうにされて、おれは全くどうしていゝか判らなかつたよ。口に云へないほど辛かつたよ。そして、こんな風に変な人間ができたんだ。今さら、それを怨んだりはしない。だけど、おれは自分が思つた通りのことをどうしてもするんだ。これが真実だと思つたことは誰が何と云つたつて聞かないんだ。それが駄目なら死んだ方がいゝですよ。あゝ死にますとも。僕は何度もその決心をして来たんだ。たゞこの上迷惑をかけて、親父の名に泥を塗るやうなことになると困るからしないだけだ。いざとなつたらいつでもやつてみせますよ」

    「あんまり、ぢつとしとつてもな、身体が生なまに、なるもんぢやから」

    房一は自転車を降りて押しながら歩いた。しばらく行くと貯水池が見えて来た。あたりは松林で、その抜き立つた幹の間から水面が光つていた。向ふ側は半ば葉を落した雑木山だつた。いたる所が透いて、明あかるく、からりとした空気の中を時々つんと強い山の匂ひがした。

    「まあ、生れ故郷ですから」

    八月も末だつた。十日あまり思ひがけない涼しさがつゞいたので、このまゝ九月に入るのかと思はれたが、暑さは又ぶり返して、がまんがならないほどだつた。

    徳次はすつかり感心したとも、又その反対ともとれる云ひ方だつた。

    客の心持が変ると共に、温泉宿の姿も昔とはまったく変った。むかしの名所図会めいしょずえや風景画を見た人はみな承知であろうが、大抵の温泉宿は茅葺屋根であった。明治以後は次第にその建築も改まって、東京近傍にはさすがに茅葺のあとを絶ったが、明治三十年頃までの温泉宿は、今から思えば実に粗末なものであった。

    「もうそんなにおよろしいんですの?すつかり御無沙汰していました。ほんとうに!よくおいでになれましたわねえ」

    と、盛子は大げさに滑稽な顔をしてみせた。

    気がつくと、ふしぎな位人影がちつとも見えなかつた。よく乾いた路がのんびりとした曲り工合を見せて前方を走つていた。部落のとつつきの石垣の突き出た農家の先を曲ると急に家並びが見えて来た。

    「これですか――?」

    彼は自信を失つた。それにこの苦痛と動揺は明らさまに説明しにくい、説明したところで判つてもらへない種類のことだつた。房一はそれを盛子の妊娠の揚合にも経験した。

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